八木節とは

八木節は、栃木県足利市や群馬県の桐生市、太田市などが発祥の地域とされ、その元唄は越後の新保広大寺節と言われています。

足利市や太田市などの地域には昔の宿場町があり、それぞれの宿場町は日光の東照宮へと続く「日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)」と呼ばれる街道沿いに有りました。
この街道は、将軍・徳川家康の没後、東照宮に幣物を奉献するために勅使が通った道であり、当時は相当の賑わいであったと言われています。
その例幣使街道沿いの各宿場町には、越後方面から遊女や飯炊きの奉公として売られてきた女性がいました。

その女性たちが故郷を恋しがって唄った唄の中の一つに「新保広大寺節」があり、それが八木節の元になったと言われています。
新保広大寺節は越後で生まれた民謡で、江戸時代には広く関東地方から東北まで、「瞽女(ごぜ)」と呼ばれる盲目の女性芸人が各地を巡業などで唄い歩いて伝播していったとされています。
その新保広大寺節を元に、各地域に根差す形に歌詞を変え、節を変え、口説節など様々な形の民謡になっていったと言われています。

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当時、足利にあった八木宿で馬方として生計を立てていた「堀込源太」という人物は、大変な唄上手として知られていたそうです。
その源太は馬方として働きながら馬子唄などを唄っていたのが、徐々に口説節も唄うようになりました。口説節を更に自己流に唄ったことによって多いに評判となり、「源太節」と呼ばれるまでになったと言われています。

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当初は一人で唄っていたところ、余りの評判に宿の仲間が笛やカネなどで囃し方を担い、一座を組んで興業もするようになりました。
源太が盆踊りなどの場で、唄の腕比べに出場すると必ず優勝したというほどで、その際に八木宿の有力者が源太節を「八木節」として欲しいと要求され、源太節は八木節になったと言われています。

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例幣使街道の他の宿場町でも、越後から来た女性が同様に広めた口説節は唄われていたことで、木崎宿では「木崎節」として、境宿では「赤椀節」として口説節があったことから、それぞれの地域での口説節が八木節の元祖だとする主張もあります。
いずれにしても、新保広大寺節が例幣使街道沿いの宿場町で口説節となり、八木節の元になったという事でしょう。